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2018年2月 7日 (水)

小泉小太郎と小泉氏

松尾町商店街フリーペーパー『真田坂』の25号の特集は小泉小太郎です。塩田平民話研究所長の稲垣勇一様に全面協力をいただき、小泉小太郎の民話としての魅力とその背景について解説する内容となる予定です。

真田坂の方は純粋に小泉小太郎という民話の内容について掘り下げますので、そちらは発刊予定の3月を楽しみにお待ちください。
ただ、民話研究の門外漢としての立場で見ると、どうしても小泉小太郎と上田の中世地方豪族の「小泉氏(泉氏)」の関係が全く無いとは思えませんので、このブログに異説として記します。ちなみに、民話研究の大家である柳田国男は、小泉小太郎と泉親衡(平安末期から鎌倉時代初期の上田市小泉を拠点とした地方豪族。泉親衡の乱(建保元年、1213年)を起こし、後の和田合戦を誘発する引き金となる。親衡は小泉氏の祖先と考えられる)を同一視することを否定していますし、稲垣勇一様も柳田説を支持し小泉小太郎と小泉氏の関係性を否定する立場ですので、これからの文は単なる私説に過ぎないことを始めにお断りしておきます。

---小泉氏の盛衰---

まず、小泉氏(泉氏)とは何者なのか、というところから始めます。インターネット上で小泉氏の居城の解説はいくつか目にすることができますが、小泉氏自体の解説は現状ほぼ存在しません。それもそのはずでして、小泉氏というのは実に謎が多い一族でして、分からないことだらけなのです。

泉氏は源満快の子孫であり、清和源氏の一派であるとしています(尊卑分脈など)。泉氏を名乗り始めたのは満快の6代後の公季からで、小泉庄の地頭となりました。泉親衡は公季からさらに3代後の当主となります。

鎌倉時代初期に打倒北条氏を目指した泉親衡の乱を起こして失敗し、当主の親衡が逐電した泉氏が鎌倉幕府からいかなる処分を受けたか、はっきりとした記録は残っていません。しかし、泉親衡の乱から26年後の延応元年(1239年)、時の執権である北条泰時が「小泉庄室賀郷」の水田を善光寺へと寄進している記録が残っており、恐らく乱後に小泉庄は幕府に没収され、地頭職も北条氏により接収されたと考えられます。
それから100年以上後の記録に、北条氏の配下として岡地区と舞田地区の地頭職をもらっていた記録がありますが、鎌倉時代を通じて冷遇され続けたことが伺えます。

鎌倉幕府崩壊後に泉氏(小泉氏)がいかなる動きをしたか、これもはっきりとした記録はありません。ただ、北条氏滅亡後は足利尊氏が小泉庄の地頭になっているものの、室町時代後期から戦国時代になると小泉氏が小泉一帯を支配していたことが明らかになっています。恐らく室町時代のどこかの時点で、小泉氏は何らかの方法で失地回復に動いたのでしょう。
戦国時代には小泉氏は村上氏に味方し、小泉庄とは千曲川を挟んで対岸の現在の上田城の小泉曲輪の場所にまで勢力を伸ばし、館を構えていたと考えられています。しかし村上義清が武田信玄の侵略を受けて逃亡したので、やむなくその軍門に降りました。
さらに武田氏が滅亡した後は真田氏の家臣となりましたが、信之の松代転封後の記録からはぷっつりとその名が消えています。恐らく松代転封を嫌って小泉の地に残ることを選択し、武士身分を捨てて庄屋などの農民となったのでしょう。

---氾濫原に追いやられた小泉氏---

さて、時代は鎌倉時代に戻ります。下の地図に、泉親衡の乱後の泉氏の居館推定地、参考までに乱前にあった泉氏の築地の居館推定値を載せました。

泉親衡の乱が起こる前の泉氏の館は上田原や室賀、岡など各所にあったと見られていますが、そのうちの一つが築地バイパス沿いの七社宮のあたりにあったと推定され、土塁跡とみられる地形が残っており、その土塁の横の発掘調査により堀跡が発見されています。この辺り一帯の築地(ついじ)という地名は、おそらく居館の土塁にちなんだものと考えられています。

一方、乱後の居館推定値は浦野川と産川の合流点にあったと推定され、いつ洪水に襲われてもおかしくない場所です。当然、元々は誰も手を付けない荒地だったのでしょう。
なぜ、このような悪条件の場所に泉氏が居館を置かなければならなかったのか?その理由について上田市誌では、「泉親衡の乱により領地を全て没収された泉氏は、誰も手を付けていない荒野を一から開発して生活の糧にするしか無かった」と推測しています。
この推測が正しいか分かりませんが、いずれにせよこのような二つの川の合流点に位置する泉氏居館は、頻繁に洪水の被害を受けていたでしょう。また、そのような場所をあえて選んで開発していく泉氏は、人々から奇異の目で見られたり同情されたり、あるいは水を自由に司る水神の化身のように崇敬されていたことは想像に難くありません。

---小泉小太郎と小泉氏---

さて、小泉小太郎は大蛇の子です。蛇は水神の象徴なので、小太郎は水神の子孫と言えます。そして、母である大蛇が死んだことにより起こった洪水で産川を流れ下った小太郎は、川のほとりの村で老夫婦に拾われて育って行きます。言うまでもなく、物語の小泉小太郎に、氾濫原を生活拠点とする泉氏の姿を重ねることは容易かと思います。

ところで、小泉小太郎の物語は、育ての親である婆様が萩に押しつぶされて死んでしまうところで唐突に終了します。柳田国男はそこに松本平の民話「泉小太郎」を重ね合わせ、もともとは壮大な一つの物語だったと提唱しています。松谷みよ子はそれを発展させ、小泉小太郎と泉小太郎をモチーフにした童話「龍の子太郎」を完成させました。それに対して、稲垣勇一様は小泉小太郎を子供の成長物語と捉え、これ単独で完成した物語の美しい形なのだという立場をとっています。

私は、もともとは小泉小太郎は婆様が死んだ後も話が続いていたと考えています。そこまでは柳田国男や松谷みよ子と同じなのですが、後半の話は松本平の泉小太郎とは別の物語だったと思っています。突飛な私説に過ぎませんが、小泉小太郎の後半部分はこのようなものだったと想像しています。
「婆様の死後に、小太郎は氾濫原を開拓して豊かな穀倉地帯に変えた。そうして小太郎は殿様になり、一族はこの地で今も幸せに暮らしている」
そんな、サクセスストーリーがあったのではないかと考えています。しかし、小泉氏は戦国期の動乱の中で没落してしまいます。開発領主としてのサクセスストーリーの部分は説得力を失い、いつしか人々が語らなくなり、前半部分の小太郎の成長物語だけが語り継がれてきたのが小泉小太郎の話の正体なのではないでしょうか。

以上、泉氏・小泉氏を含めて私説を書き連ねてみました。
物語としての小泉小太郎は、3月発刊予定の真田坂25号を楽しみにお待ちください。

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