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2012年9月 4日 (火)

手塚光盛(手塚太郎)

フリーペーパー真田坂の次号が木曽義仲特集ということで、手塚光盛について調べています。

木曽義仲の懐刀として全国的にその名を知られる手塚太郎(光盛)なのですが、そのお膝元の上田市民が光盛について驚くほど無関心、というのが残念ながら実情です。郷土の武将と言えば真田幸村をはじめとする真田氏、官民挙げてそればかり喧伝している弊害と言えるかも知れません。
光盛自体の紹介は、他のホームページにいくつも詳しいものがありますのでそれに譲ります。

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これは上田市塩田の手塚大城(おおしろ)という地籍にある手塚氏居館跡です。地名からしていかにも、といった風情が残っています。

ところで手塚光盛を調べている中で、面白い記述がありました。
光盛の兄弟の金刺盛澄の元で木曽義仲が修行したとの伝説が、諏訪大社にあるそうです。もしそれが本当だとしたら、少年時代の義仲が手塚の地を何度も訪れていたとしても不思議はありません。

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これは義仲の居館(依田館)跡と推定されている場所です。手塚から砂原峠を越えた、車で15分くらいの近所です。

以下、私見です。
木曽で幼児期~青年期を過ごしたはずの木曽義仲が、なぜいきなり上田市の依田に移ったのか?なぜ依田を中心とした東信地域を活動拠点とした途端に、たった2年で北陸進撃できるまでに勢力拡大できたのか?
旗挙げするまで義仲が木曽に引きこもっていたという従来説で考えると、ちょっと無理がある話のような気がするのです。そこで義仲は木曽に引きこもっていたのでは無く、旗挙げするまでに何度も手塚の館を訪れて東信地域における綿密な足場固めをしていたと考えれば、木曽を出てからの義仲の動きは合理的で納得できるものになります。以上、証拠はありませんが、私はそんな想像をしています。

余談になりますが、義仲は依田館に入って有力豪族の依田氏の庇護を受けます。この依田氏は、一説によると金刺氏をルーツとしているとされています。手塚氏も、光盛の兄弟の盛澄が金刺を名乗っているところからわかるように金刺氏の一族。
金刺氏の親戚コミュニティが、義仲の強力な屋台骨となったのかも知れません。

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ところで盛澄は弓の名手として知られます。塩野神社の鳥居から一直線に伸びるこの道は平安時代末期の流鏑馬の走路跡で、全国的に見てもここまで綺麗に残っているのは珍しいそうです。塩野神社は手塚から車で5分の距離にあります。

同じくらいの年頃の光盛盛澄兄弟と一緒に、多感な時期の義仲少年がこの地で遊びながら馬術や弓術を鍛えていたのでは?と想像するとなんとも歴史ロマンが広がっていきます。

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