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2010年9月 6日 (月)

三吉慎蔵と信州上田

昨日の大河ドラマで、竜馬の盟友として大活躍している長州藩士三吉慎蔵ですが、上田と非常に縁が深いことをご存じの方はあまり居ないと思います。
縁が深いと言っても、彼自身が上田に出入りしていたというわけではないのですが、三吉慎蔵の長男の米熊が上田に居を構え、その直系のご子孫が上田に今も残っています。

三吉米熊は、上田に転居後、養蚕・蚕糸のエキスパートとして活躍しました。小県蚕業学校(現:上田東高等学校)を創設、上田蚕糸専門学校(現:信州大学繊維学部)の創設にも深く関わっているなど、蚕業教育に力を注ぎ、蚕都上田の地位を確固たるものにしました。
(三吉米熊の経歴は上田マルチメディア情報センターのページが詳しいです)

なぜ、三吉米熊は上田という土地を選んだのでしょうか。
はっきりしたことは分かりませんが、恐らくには幕末の著名な軍学者の佐久間象山(Yahoo百科事典の解説)の影響が強いのではないでしょうか。佐久間象山は松代藩士でしたが、上田と非常に関係が深く、佐久間象山への面会は上田藩が窓口していました。高杉晋作、久坂玄瑞などの名だたる長州藩士が上田を訪問し、佐久間象山の教えを受けたことが記録に残っています。
三吉米熊も一大学府としての上田という土地に憧れ、自らの居をここに構えることを選んだのではないでしょうか。あるいは、慎蔵が米熊に上田を推薦したのかもしれません。
いずれにせよ、上田が幕末から明治にかけて、長州と密接な関わりがあったことは間違いありません。

ところで、上田藩主といえば松平氏、徳川家の血筋です。最後の上田藩主である松平忠礼は、戊辰戦争で率先して新政府側に味方するなど、徳川家の血筋とは思えない行動をとっています。最後まで徳川に弓引いた真田昌幸・幸村の亡霊に毒されたのか、とさえ思えてしまいます。

しかし裏を返せば、それだけ当時の上田が先進的で、徳川の世が終りであることを知ることができるだけの情報通だった、ということなのでしょう。

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