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2010年9月

2010年9月28日 (火)

星糞峠

きれいなのか汚いのか微妙な名前ですが、上田から車で1時間ほど、星糞峠は知る人ぞ知る黒曜石の日本屈指の大産地です。
石器~縄文時代において黒曜石の重要な産地でして、無数の採掘祉が今も残っています。


より大きな地図で 星糞峠 を表示

黒曜石体験ミュージアムに車を停めて(ミュージアムの係の人に言えば、熊よけの鈴を貸していただけます)、30分ほどの軽い登山で採掘祉群につきます。

Hoshi

採掘祉の看板のある台地です。

Hoshi1

採掘祉は、この林の中のなだらかな斜面にあります。

Hoshi2

写真だと分かりにくいかも知れませんが、なだらかな窪地が無数に斜面にあり、これが古代人が黒曜石を採掘した穴です。

一大産地だけあって、小さな黒曜石の破片は足の踏み場も無いほどの無数です。

Kokuyou

Kokuyou2

陽に透かしてみると、きれいなガラス質を楽しむことができます。

Kokuyou3

事情を知らない昔の人が、黒曜石を星の産物だと解釈したのが星糞峠の名前の由来だと思われますが、それもさもありなんと思える美しさが黒曜石にはあります。

黒曜石の採取、持ち帰りは禁止されていますが、古代ロマンを感じさせられる黒曜石に気軽に触れ合える場として、星糞峠は絶好の場所です。
機会があれば一度足を延ばしてみてください。

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2010年9月27日 (月)

ナイアガラが入荷・加工しました

Nai

今年のナイアガラが収穫されまして、加工しました。
今年のナイアガラは香りが出るまで時間がかかったこともあり、酸味が少なく生で食べても美味しくいただけます。ジャム用としては酸味も大切な要素なのですが、今年の異常高温の影響による生育不良を考えると酸味を犠牲にしてでも、香りを大切にせざるを得なかったというところです。

今、仕込みをしていますが、今年のナイアガラジャムは例年よりマイルドな味に仕上がりそうです。

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2010年9月25日 (土)

ブドウの状況

今年の記録的な猛暑の影響で、コンコードとナイアガラの熟度に遅れが発生しています。先々週から毎週桔梗ヶ原に行き、農園の状態を確認していますが、ようやく完熟に向かっているようです。

Conc1

先々週(10日)のコンコードの様子です。

Conc2

先週(17日)のコンコードの様子です。

Conc3

昨日(24日)のコンコードの様子です。

例年ですと10日前後の視察でのブドウの状態で、いつ収穫するか決めるのですが、今年に限っては10日の段階では全く判断できず、このように頻繁に現地に通って慎重な収穫時期の判断が必要でした。
昨日の状態を見る限り、今月末からの収穫ということでようやくめどがつきました。

Nia

ナイアガラもようやく味が乗ってきまして、明後日から収穫・加工とします。

コンコードもナイアガラも昨年より一週間遅れの収穫となります。記録的な猛暑が完熟ブドウ品質にどう影響するか、本当に心配です。

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2010年9月 8日 (水)

なぜ上田で三宝柑の製品を作っているのか?

お客様から表題のようなご質問を受けました。
たしかに三宝柑の産地の和歌山県南部(紀南)と、私どもの長野県上田市ではかなりの距離があります。誰しも不思議に思われるところでしょうから、私どもが三宝柑を知り、製品にした当時の経緯について今日はご説明いたします。

1970年代後半、私ども飯島商店では社長を先頭にして、四季のジャムの拡充を行っていました。ジャムのラインナップに柑橘系は不可欠、ということで最初にできたのが夏柑ジャムです。
ところがある年、気候の影響で夏柑の皮に苦味が強く、ジャムにするのが難しくなりました。そこで青果問屋で喧々諤々の議論をしていたところ、たまたまこちらに来ていた紀南の人がその話を横で聞いていまして、「皮に全く苦味の無い柑橘がある」と紹介いただいたのが三宝柑なのです。

早速に、ということで紀南に行きまして三宝柑を味わってみましたところ、これが本当に最高レベルの上品な味でした。これなら良いジャムが作れる、と思い、取引の打ち合わせをしたところ、農家の方からこんなことを言われました。

「三宝柑は伐採奨励品目に指定されていて、伐り倒せば伐り倒すほど奨励金がもらえる。あと数年で三宝柑はすべて伐られて、絶えてしまうだろう。だから、この取引も数年だ」

伝統ある古い品種を滅ぼして新しい品種にしていくことこそ、善なのだ。当時はそんな風潮が農政にもはびこっていました。三宝柑はそういった槍玉に上がる品種の一つだったのです。
三宝柑の高品質さと潜在的価値を訴える私どもは、まさに流行の真逆を行くもので、奇異の目で見られました。

産地になんとかお願いをして伐採を待ってもらい、今すぐに品種保存に取り組まねば三宝柑が絶滅してしまう。三宝柑の歴史的価値も併せて考えると、それは後々重大な損失として後悔する結果になるだろう。
その思いから、ジャムにするだけではなくみすゞ飴のラインナップにも加え、とにかく取引実績を確保して伐採にストップをかけたのです。

かくして現在に至ります。
三宝柑は私どもが誇る製品ラインナップの一つであり続けています。

世間では三宝柑の加工品も増えて、ようやく時代が三十数年前の私どもの想いに追いついて来た感はあります。今でこそ、古い品種保存の価値も一定の理解が得られています。
しかし、信州の山奥の私どもが動かなければ品種が継続しない、そんな時代があったことを言わせていただきまして、私どもと三宝柑のつながりの経緯とさせていただきます。

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2010年9月 6日 (月)

仏岩の宝篋印塔(ほうきょういんとう)

長和町のエコーバレースキー場へ行く途中、仏岩という景勝地があります。

Hotokeiwa1

山の山頂に切り立った大岩が3つ並んでいますが、これが仏岩です。
この切り立った大岩の上に、鎌倉時代の応長元年(1311年)の石塔(宝篋印塔)があります。在銘の石塔としては長野県最古のものです。

Hotokeiwa2

仏岩を拡大したものですが、一番左の大岩の上にぼんやりと石塔が乗っているのが分かるでしょうか。

仏岩登山道入口は国道152号線沿いに大きな看板がありますので、すぐにそれと分かります。

Tozando

仏岩の上まで30分程度の登山なのですが、登山道は頂上付近でかなり厳しいものになります。

Hotokeiwa3_2

チェーン伝いに登っていかなければならない場所です。それほど長く続くわけではありませんが、ちょっとした探検気分を味わえます。

Hotokeiwa4

仏岩の頂上、宝篋印塔へと登るハシゴです。足を滑らせれば無事では済まないところですので、それなりの覚悟が必要です。

Houkyouinn1

仏岩の宝篋印塔と、そこからの景色です。

Hotokeiwa5

足元はこんな感じでして、絶景というよりも恐怖感を覚えます。

ちなみに、この宝篋印塔は、江戸時代に岩茸採りに来た村人によって偶然に発見されました。岩茸(信州ではおめでたい席などで食べる高級食材です)はコケの一種でして、このような断崖絶壁に生えます。
一体誰が、何のために、どうやって、このような鳥しか通わないような場所に石塔を立てたのか?しかも、信州最古の石塔が、なぜこの場所に立てられたのか?
伝説・伝承の類すらまったく現存せず、大きな歴史上の謎です。
(銘文については上田マルチメディア情報センターのページに紹介されています)

Houkyouinn2_3

その謎の解答を知っているのはこの石塔だけ、ということになります。

仏岩からすぐ近くには大門峠があり、茅野へと抜ける大門街道は古くから交通の要でした。また、石塔の銘文からも西日本にルーツを持つ有力者が建てたのではないかと想像できます。
はるか遠く、峠を越えて、故郷を望むことができそうな場所が仏岩の上だった、と私は想像しています。

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三吉慎蔵と信州上田

昨日の大河ドラマで、竜馬の盟友として大活躍している長州藩士三吉慎蔵ですが、上田と非常に縁が深いことをご存じの方はあまり居ないと思います。
縁が深いと言っても、彼自身が上田に出入りしていたというわけではないのですが、三吉慎蔵の長男の米熊が上田に居を構え、その直系のご子孫が上田に今も残っています。

三吉米熊は、上田に転居後、養蚕・蚕糸のエキスパートとして活躍しました。小県蚕業学校(現:上田東高等学校)を創設、上田蚕糸専門学校(現:信州大学繊維学部)の創設にも深く関わっているなど、蚕業教育に力を注ぎ、蚕都上田の地位を確固たるものにしました。
(三吉米熊の経歴は上田マルチメディア情報センターのページが詳しいです)

なぜ、三吉米熊は上田という土地を選んだのでしょうか。
はっきりしたことは分かりませんが、恐らくには幕末の著名な軍学者の佐久間象山(Yahoo百科事典の解説)の影響が強いのではないでしょうか。佐久間象山は松代藩士でしたが、上田と非常に関係が深く、佐久間象山への面会は上田藩が窓口していました。高杉晋作、久坂玄瑞などの名だたる長州藩士が上田を訪問し、佐久間象山の教えを受けたことが記録に残っています。
三吉米熊も一大学府としての上田という土地に憧れ、自らの居をここに構えることを選んだのではないでしょうか。あるいは、慎蔵が米熊に上田を推薦したのかもしれません。
いずれにせよ、上田が幕末から明治にかけて、長州と密接な関わりがあったことは間違いありません。

ところで、上田藩主といえば松平氏、徳川家の血筋です。最後の上田藩主である松平忠礼は、戊辰戦争で率先して新政府側に味方するなど、徳川家の血筋とは思えない行動をとっています。最後まで徳川に弓引いた真田昌幸・幸村の亡霊に毒されたのか、とさえ思えてしまいます。

しかし裏を返せば、それだけ当時の上田が先進的で、徳川の世が終りであることを知ることができるだけの情報通だった、ということなのでしょう。

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